久山倫代『舟を呼ぶ』（2022年；本阿弥書店）
こめんと
第4歌集 「舟の上の人を思うように父母を思う」と帯にある。父を送り母は認知症になり施設で暮らす。本人も激務の勤務医から少し距離を置きフリーランスの皮膚科医として患者と向き合う。
付箋
同級生であることうすく感じつつ患者と医者でしばらく語る
日本語をぼろぼろにしてカルテ書くこのさびしさのいつよりかある
留守電にもう母おらず夜々を離岸の舟に灯ともすわれは
祖母宛の手紙の間に五十年経て崩れざる押し葉い出で来ぬ
認知症のおばあさんという分身をこの世に置きて母はいずこへ
胃管より流るる液の色を見る娘にあらぬ目を持つわれは
寒いかと問えば小さく顔を振りそれが最後の父であった
下の名でわが母を呼ぶいつか見し患者の娘さんがしていしごとく
薄ら氷を踏む危うさよさりげなく前医の誤診カバーするとき
開業以来代診頼みしことなしと われ初めてのピンチヒッター
聞きたきにもう父おらずこの世では答え合わせのできぬことあり
触診の手の冷たさをわぶるとき古き初心がなつかしく顕つ
離れゆくわたしを小さく呼んだだろう改札機からのぞきし切符
泥臭き診療に育ちたるわれはグリメサゾンの匂いを覚ゆ
真裸の心でわれは今あるを存分に患者でありたしわれも
混沌へ行けよと声すIC付き医師資格証首に下ぐれば
