永田和宏「午後の庭」（2017年；角川書店）
こめんと
第13歌集。河野裕子さんが亡くなって七年。
付箋
病む妻を持てるは悲しかりしかど亡き妻を持つと今は言はるる
告げしことそれより多き告げざりしことも伝はり逝きたるならむ
遺し逝くはうの辛さをまた思ふ わが母の場合わが妻の場合
よく生きたよくやつたよと告げたきにこの世の夏がまた巡りくる
また夏がこの世に夏が巡りくる君が聞きゐし蝉声を連れて
遺されし歌書き写すこれ以上増えることなきかなしき歌を
ひとりひとりの死者には家族のあることを嘆きとともに思ひゐるべし
ああしんど いつものやうに凭れくる君の背があり背なの温とさ
もうあれは去年のことかきみに降りわれらに降りし蝉声の夏
口あけて眠れるのみとなりしかばもういいよもうと子は思ふなり
２Ｂの鉛筆をもて○をつけ歌にはボールペンは似合はないと言へり
一人にてなす楽しみのおほよそのつまらなくして橋の端に立つ
こんなにも気配はそばにあるものを一度くらゐ返事をしてみろよ おい
紅（こう）の背を越したる櫂（かい）はさりげなく紅に並びてにんまりとゐる
池底の石はしづかに日のひかり月のひかりを受けて老いゆく
食べるまへも食べても独り わたくしに聞かせるために咳ひとつする
片づけのできないところはお母さん似と囁いて娘は本の間に寝る
ほんたうに怒つてゐるのだ情けなくて怒るとふこと君にわかるか
見せびらかしてゐるみたいだねごめんねと写真の前に幼なをあやす
あの頃のあなたの歌がやうやくに読めるやうになりぬその寂しさも
チューリップはいいわねお尻がかはいくて、なんて言つてたはずのあなたが
もういやだ放りだしたいなにもかも聞く人なけれど言ふだけは言ふ
ほめかたがだいぶあなたに似てきたよ 紅（こう）のことだよ 泣けてしまふよ
浅草のどぢやう井関は無くなつて一緒に行かうと言ひゐし人も
よくやつたとほんとに思ふわたくしを出さず抑へて来し三〇年
ゐてほしいとおもふのはもうゐないとき 鍵をまはして戸を開けるなり
古い映画のやうな夕日が駅に差し私を降ろして電車が動く
