河野裕子
蝉声（2011）
- 母がまだ生きゐし頃のこゑがする日向に出でてはいと振りむく
- ぼんやりと淡々とこの世を過ぎてゆかう梅が咲いた桜が咲いたと
- 縁先にきーんと光れるメシヒバがそれでいいんだよよくやつたと言ふ
- やはり蝉声よとわれはおもふ湿りて咲きゐるひるがほの花
- 手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が
葦舟（2009）
- 月の夜の湿りし空気に膨らめるそらまめの花ゑんどうの花
- 影踏みて歩みゆくうちずずずずずとわが身の中心がずれてゆくなり
- 無愛想な棕櫚の木なれど戦ぐとき影はらはらと風にひろがる
- 傘さして帰りて来たる娘には傘のやうなる誰かの気配
- 生きながら死んでゆくのが生きること眠るまへ明日の二合の米とぐ
母系（2008）
- ふるさとは墓が古びてゆく所縁（へつり）に赤い椿が咲きて
- うつ向いてものを書くときこのひとは何とわたしから遠いのだらう
- 泣いて泣いてすつからかんになりし子に四歳半の元気が戻る
- 気まぐれに乗せてみる雪溶けてゆく雪の時間がてのひらにあり
- 遺すのは子らと歌のみ蜩のこゑひとすぢに夕日に鳴けり
庭（2004）
- 自らを励ます力ある言葉一夜をかけて歌作るなり
- 寒けれどものの匂ひのふくらみて大気はゆつくり春へと動く
- ひとりぺたんとこの世に残され何とせうひいといふほど椿が落ちる
- 雨脚が透けて見ゆるよ九月に入り初めてのあめ雨音たてず
- 気を抜けばがらんどうになるゆゑにあを空のした影締め歩く
季の栞（2004）
- 頬杖をつけば傾く脳の感じ、みづいろの朝顔いちりん泛かべて
- 山鳩のしばらく鳴きやむしづかさに沁み出でて鳴くひとつにいにい
- 仕事して老いてゆくなり父も子も息子の方が早く老けつつ
- 灯ともさぬ階段に腰かけ待ちてをり今日は君だけが帰りくる家
- 身力の失せゆく暁がた夏菊の薄く匂へり薬臭に似て
- 最終ひかりに不意に泣きゐる私かな他人ばかりの車輌に緩みて
- 桐の花うへから見たることのなし筒花つぶさに遠目に見ゆれど
- 青い空とてもにぎやかに晴れながら昏れてゆくなりまだ青いまま
- 感じやすき花なりコスモス有りなしの風にくすくす振り向き揺るる
- ひとつひとつチューリップの花のぞきゆくどの色もよくて黄のチューリップ
- 根気よく歌は作るより他になし粒つぶと五首粒つぶと十首
- さびしさが私をどうにかしてしまふ青空の下キャベツを下げて
- なぜかうも青い空がいやなのか答へ得る一人花山多佳子
- 亡き人は亡きまま置かれ鳩歩く屋根の勾配のんびりとせり
- 竹箒使ふ体力も戻りたり無理はせず大方は右手に任す
- 段（きだ）のぼる子の足うらを見てのぼるこんな足幅で生きてゐるのか
- 背骨から疲れが来るよ紙コップに子が挿しゆきし野菊の花も
- 錠剤をいくつも服みて今日一日踏み渡りたり雨が降りゐる
日付のある歌（2002）
- 昨日見て今日また見たきみどり児に会ひにゆくなり傘かたぶけて
- 行間はかくしづかなり死を述べし五行をおきて改行をせり
- 手鏡に空を写して見てゐたり鳥居のうへの暮れがたの空
- 選歌せし三百六十枚が熱（ほめ）く上（へ）に両手をつきて立ちあがりたり
- そのときの君より若き息子かなジーンズの膝かたく揃へて座る
- 水漬きつつ銹びゆく自転車あはれなりいづれも細身まだ新しく
- ハローワークへ行きて留守なり子の家のコップの細葉の日本水仙
- れんげさうの好きな歌人でありしかなほつそりとここにもれんげさうの歌
- 類型歌百も二百も三百も選りては捨つる卦体に疲る
- 眼をそらさず人の眼を見て話せよと紅が教へき確かにさうせむ
- 過労鬱のとばつちりなれど寂しさよ俺の広辞苑使ふなと怒鳴る
- 男傘のあかるき紺の円のなか靴先ぬれて駅まで歩く
- 一時間の長居の後に出でみれば赤きファミリア待ちてをらずも
- ひそひそと散り続けゐる竹の葉の暁闇の中に気配が動く
- ひのくれになれば米磨ぐ習性は起きて二合の米を量れり
- 幼児期の寡黙と勝気 底紅の紅かつきりと木槿が咲けり
- 酢を打ちし飯を混ぜつつ甦りくる真中の二十代吉川の十代
- まつすぐに進むものなり二人乗りの赤い自転車くいくいとゆく
- 階段の途中に立ちて振り返る大きな月だ浮き始めゐる
- 梅の間の二十七畳にゐる子らを生まれて間なき頃よりぞ知る
- 力尽くし息子が作りし雑誌なり定価五〇〇円の薄さかなしむ
- 仕舞湯の暗きに瞑り痛む肩揉みてぞいたるしこり忘れて
- 何といふ顔してわれを見るものか私はここよ吊り橋ぢやない
- さびしいよ、よよつと言ひて敷居口に片方の踵でバランスを取る
- 暗がりに鳴いてゐるなり青葉木菟空耳ならず吸ひこみて聞く
- 明るくてさびしい色なり雨の夜の白色灯下の黄色のクレヨン
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